代表取締役社長 松尾 正人
新しい世紀を迎え、建築金物技術も益々向上してまいりました。弊社もお客様のニーズにお答えすべく、塗装技術の革新、最新鋭機械の導入を進めてまいりました。今後も、最高の塗装技術をお客様に提供できるよう、更なる技術革新を進めてまいります。品質はもちろん、コスト、納期におきましてもサービスの向上に努力してまいります。 今後とも、ご愛顧の程よろしくお願い申し上げます。
会社名 | 株式会社 和広 |
代表者 | 代表取締役社長 松尾 正人 |
本社所在地 | 福岡県糟屋郡宇美町大字炭焼1160-10 |
工場 | 同上 |
業種 | 焼付塗装(フッソ、ウレタン、粉体、アクリル) |
取扱品目 | アルミサッシ、建築金物、機械部品 |
資本金 | 1,000万円 |
従業員数 | 男性25名 女性6名 |
工場規模 | 敷地面積2,650㎡ 工場面積1,300㎡ |
取引銀行 | 西日本シティ銀行 福岡銀行 |
主要販売先 | 九州、山口地区一円 他150社 |
主要仕入先 | ㈱サンリード ㈱イノウエ塗料産業 西部ガスエネルギー㈱ |
取扱塗料メーカー | 日本ペイント㈱ 大日本塗料㈱ ㈱トウペ |
昭和54年1月 | 大野城市仲畑にて、開業。 |
平成3年1月 | 宇美町に、第2工場として自動ライン塗装工場設立。 |
平成4年10月 | 株式会社に、法人改組。 |
平成8年11月 | 現在地に、本社移転。 |
会社の動き | 社会の出来事 | ||||
1979年1月 | 大野城市中畑3丁目にて(有)和広塗装工業をスティール製事務機等のメラミン焼付塗装業としてスタート(社員数5名、工場敷地60坪) | 1979年~ | 第2次オイルショック | ||
1982年3月 | 主取り扱い塗料をメラミン焼付塗料からアクリル樹脂焼付塗料、金属製建築金物塗装へ事業拡大 | 1985年 | 日本電信電話公社が民営化(NTT) | ||
1985年10月 | フッ素樹脂焼付塗料取り扱い開始(社員数7名) | 1987年4月 | 国鉄が分割民営化 日本国有鉄道からJRへ | ||
1986年4月 | 本社工場を中畑1丁目に移転 熱風乾燥炉、塗料ブースを増設(社員数10名、工場敷地130坪) | 1987年~ | この年から、バブル景気始まる | ||
1987年5月 | 静電気塗装ガン導入 | 1989年1月 | 昭和天皇崩御 64年もの長い昭和時代が終わり平成に改元 | ||
1992年1月 | 糟屋郡宇美町にて第二工場フッソラインワコー新築(工場敷地750坪)自動静電塗装ライン新設 高温フッ素樹脂焼付塗料カイナー500取り扱い開始 |
1989年11月 | ベルリンの壁崩壊 | ||
1992年11月 | 株式会社 和広塗装工業に社名変更 | 1991年1月 | 湾岸戦争勃発 原油流出で環境汚染が大きな波紋 | ||
1996年8月 | 石調塗装 ワコート開発 受注開始 | 1991年2月 | 雲仙普賢岳大噴火(長崎県) | ||
1996年11月 | 本社工場を宇美工場に移転 塗装ブース2基、乾燥炉新設(社員数25名) |
1991年12月 | ソビエト連邦解体 | ||
1998年5月 | 静電粉体塗装機導入 年間塗装平米数12,000平米に |
1991年 | バブル経済崩壊 | ||
1998年1月 | 株式会社 和広 に社名変更 | 1993年5月 | 皇太子徳仁親王が小和田雅子さんと結婚 | ||
1999年4月 | ランズバーグ社製自動静電塗装機ランズマックスを2基導入 塗装効率化を図る | 1995年1月 | 阪神淡路大震災 | ||
2000年8月 | ワコートシリーズに木調塗装、古美式塗装を新たにラインナップ | 1995年3月 | 地下鉄サリン事件が発生 | ||
2006年 | 年間塗装平米数15,000平米に(社員数32名)現在に至る | 1995年 | 野茂英雄投手が日本人初のメジャーリーグ新人王 | ||
1998年2月 | 長野オリンピック開催 | ||||
2000年7月 | 九州・沖縄サミット開催 | ||||
2001年9月 | アメリカニューヨークで同時多発テロ発生 | ||||
2002年6月 | サッカーワールドカップ日本と韓国が共催 | ||||
2004年3月 | 九州新幹線鹿児島ルートが部分開業 | ||||
2005年3月 | 福岡西方沖地震が発生 | ||||
2007年1月 | 宮崎県知事に東国原英夫氏が当選 |